現実と戦うモチーフである「黒豹」とは違い、キミドリの部屋に住み、創造力を食べていく動物として「ウサギネズミ」を描きました。それまでは、立体作品としてネズミのオブジェなどを作っていました。粘土でネズミを作り、その上から細かく切ったキャンバスを貼り付けたものです(上・左の写真)。このときは、まだ、ネズミとウサギは、合体したモチーフではありませんでした。ただ、キャンバスを餌にするネズミというイメージが頭の中にありました。この作品では、イメージがより濃密になり、ウサギネズミというイメージの中の動物を生み出し、のちの「ウサギねずみ」シリーズの原型となりました。
ウサギは、一般的には、ペットとして飼われていて、一見かわいらしく、弱い一面をもつ動物であり、ネズミは、繁殖力が旺盛で、人間に飼われなくても生きていける逞しさと、汚れたイメージとを併せ持った動物であり、最も自分に近い存在として描いています。私が制作しているときの仮の姿とでもいいますか・・・。ここでのウサギネズミは黄緑色の地が透けていて、部分的に白い色がついています。創造力を吸収して白い色から黄緑色に同化しつつあるといった感じです。赤い色で塗られた部分は、逆さまから見ると、ひな祭りや誕生日、お姫様などの女の子を象徴する格好をした不二家のイメージキャラクターのペコちゃんが描かれています。この頃から、赤色を、自分の過去の時間やその中での体験や意識をあらわす色として使っています。その上に現在の自分が制作している仮の姿「ウサギネズミ」が、黄緑色を食べているといった図式です。
背景の黄緑色の上には、うっすらと文字が書かれています。ボーヴォアール 著 / 生島遼一 訳の「第二の性」(一)からの引用です。この本は、さまざまな半生を過した女性の体験を踏まえながら、女性に見られる思考や行動の特徴を分析した本です。この中から、私が気にとめた箇所を作品の背景に描いています。より黄緑色の意味を強めるためと、造形的には、文字が模様のような役割も果たし、背景に空間的な広がりをもたせるためのマチエールとして用いています。そのため、文字を逆さに書き、絵を展示している状態では落ちついて読むことはできません。あまりに感覚的に抜粋した断片的なものなので、読むことが出来ない方が都合がよいと判断したのです。実際には以下のような内容が書かれています。
「心の底では、わたしは、それが本当でないことを知っていました。わたしは、人形で遊び、人形が生きていないことをよく知っていても、生きていると信じたがる子供のようでした。」「彼女はありふれた紋切り型の詩の文句の下に、彼女をおびえさせる一つの世界をかくすのだ。月光やばら色の雲やビロードのような夜で雄性にぼかしをつける。自分の肉体を大理石の碧玉と螺旋の殿堂にする。そしてばかげたお伽話を自分に話してきかせる。彼女は物や人の上にはっきりとしない魔法のひかりを投げかける。魔法の観念は受動的な力の観念である。しかも力をつけたいと思うから、魔法を信じなければならぬ。男たちを自分の束縛下にとらえる肉体の魔術や、一般に何もしないでも彼女の欲望を満たすような運命の魔術を信じなければならない。肝心の現実の世界は、彼女は忘れようと試みるのだ。」「彼女は情熱的なそして同時に、若い男よりも無動機なやり方で、触れ、味わう。人間世界にうまく入り込めず、適応しにくいが、子供のように、その世界を眺めることはできる。事物に着手することに興味をもつかわりに、それらの持つ意味に執着する。」「自分は何事も完成できない、自分は何ものでもないと思うことが、彼女の活動をますます情熱的にする。空虚で限定されていない彼女がおのれの虚無のただなかで、懸命に到達しようと努めるもの、それは「全」である。」
この時期、自分自身の存在について考えるうえで、現在そして過去、そして女性ということを客観的にみつめるということが、制作の中での大半を占めていたこともあり、このような作品になりました。
この作品の色は、キャンバスの上で、黄緑色とピンク色を混ぜてできたものです。現実と創造の世界とが融合して混ざり合った時に、可能性や夢やあこがれが生まれるということを意味しています。画面上の文字は、使用した色の名前を書いています。花は、綿毛のようにふわふわと空中を飛んでいるイメージで、その花々は蛍のように柔らかな光を放っています。それぞれの人がもつ可能性や夢がどんどん広がるよう舞い飛ぶ花に思いを込めました。

この作品は、キルケゴールという哲学者の話に触発されて制作した作品です。

メリクリウスと神々との「対話」がモチーフになっています。ある日、第七の天にまで引き上げられたメリクリウスが、神々に「何でも欲しいものをあげよう。ただしひとつだけだ。」と言われる。何でもひとつだけ手に入れられる状況で、メリクリウスはなんと答えるのか。メリクリウスの返答もさることながら、ユーモアをもって神々が答えたその感性に、可能性や希望を感じました。作品の背景には、私にとって創造を表現する色であるキミドリを使い、対話する人物のシルエットは、意識的な「対話」を表現するため、赤で塗りました。
作品のそのモチーフとなった話とは・・・、
ある驚くべきことが僕の身に起こった。僕は第七の天にまで引き上げられた。そこにはすべての神々が集まっていた。特別な恩寵によって僕に、ひとつの願いをする恵みが与えられた。「おまえが青春でも美でも権力でも長い生命でも最も美しい人でもその他、我々の箱の中にあるたくさんのすばらしいもののひとつを望むなら選ぶがいい。ただしひとつだけだ。」一瞬、僕は迷ったが、やがて次のような言葉を神々に向かって言った。「私はただひとつ、私がいつも笑う人々を私の側に持つことを願います。」すると、それにひとりの神が言葉で答えたのではなくて、すべての神々が笑いはじめた。このことから、僕は、僕の願いが聞き届けられたと推定し、神々がなかなか良い趣味をもって自分たちの意志を表明する術を心得ていることを知った。なぜなら、大まじめで、おまえの願いは聞き届けられたなどと答えるのは不適当だったであろう。
この作品を制作して以降、「対話」が私にとっての重要なテーマのひとつとなりました。
「赤い哲学者」という作品の構想を練っている時に生まれたのが、細長く伸びた茎の上にインディコブルーの花が咲いている、この「想花」というタイトルの作品です。私はいつも黒色の代わりに、インディコブルーの絵の具を使って描いています。この色は、私にとって、未知なる可能性を表現する色です。普段、線を描くのに使用している色でもあります。この花は、これまでの作品の中にも描いているのですが、この作品では、一輪だけをあえて描き出すことによって、個々人の心にある想いや理想、憧れなどの未知なる可能性の存在を表現したいと考え描きました。背景には、創造を表す色・カドミウムグリーンのみを使用しています。
この「核花」という作品では、細長く伸びた茎の上に、花ではなく、草花の芽が双葉のままで伸びていく様を描きました。生まれ持った性格や生い立ち、人生経験から身についたオリジナリティなど、個々人の核となるものを表現しています。背景には過去の時間や経験など、意識化した感覚を表現するカドミウムレッドのみを塗りました。
上記3点の作品を初めて発表した2003年のNICAF会場(東京国際フォーラム)での個展では、「赤い哲学者」を中央に配し、「赤い想花」と「赤い核花」がその両脇を飾ることによって、メリクリウスの心の葛藤をより視覚的に表現することを試みました。この3点の関係性を示すキーワードとして、「赤い」という言葉がどの作品のタイトルにも入っています。